加藤浩子の旅びと通信 第1回 「俺たち、隠れキリシタンみたいだなあ」〜「バッハへの旅」事始めの記

こんにちは、マエストロです。
今月より、郵船トラベルの講師同行ツアー「バッハへの旅」
「ヴェルディへの旅」などでおなじみの、加藤浩子氏による
特別寄稿を数回に分けてお届けしたいと思います。

第一回目は「バッハへの旅」の誕生秘話。
ここまで深堀りしてお話いただくのは、初めてかもしれません。
ぜひ、最後までお楽しみください。


バッハが活躍したライプツィヒの聖トーマス教会



「俺たち、隠れキリシタンみたいだなあ」〜「バッハへの旅」事始めの記

こんにちは。加藤浩子です。
 「郵船トラベル」さんが主催するツアーで、同行講師をさせていただいています。
このたび、「郵船トラベル」さんのメールマガジンの場をお借りして、
定期的に皆さまへの発信をさせていただくことになりました。
どうぞよろしくお願いいたします。

第1回目になる今回は、私がなぜツアーの同行という仕事を始めさせて
いただくことになったのか、そして第1回目のツアーの思い出などについて、
お話しさせていただこうと思います。

 私のツアーに来てくださった方には大体お話ししていると思うのですが、
同行したツアーの1本目であり、
新型コロナの影響で中止に追い込まれた今年をのぞいて毎年続いてきたツアーは、
「バッハへの旅」です。
 きっかけは、バッハ没後250年にあたる2000年の記念出版として
企画された1冊の本、『バッハへの旅』(東京書籍)でした。
当時の東京書籍には、バッハ本をたくさん作っているバッハ狂(失礼!)
の編集者がいて、その彼の夢が、バッハゆかりの地を取材し、
写真もたくさん交えた、旅行ガイドにもなるバッハの伝記本を作ることでした。
その頃私は、小学館から出ていた『バッハ全集』に執筆をしており、
件の編集者から相談を受けた『バッハ全集』の編集長が、
私を著者に推薦してくれたのです。
 1999年の晩秋、私は、担当編集者、そして写真家の若月伸一さんとの3人で、
その頃ドイツを仕事の拠点としていた若月さんの運転する車で、
バッハゆかりの地をかけめぐりました。




アイゼナッハの聖ゲオルグ教会にある、バッハが洗礼を受けた洗礼盤。


その年の末、今度は若月さんのお声かけで「バッハツアーをやってみませんか?」
という話になり、若月さんの友人だった阪急交通社(最初はこのツアーは
阪急交通社で始まりました)の方をご紹介いただいたのです。
現在、郵船さんで音楽ツアーをずっと担当いただいている宮本秀文さんは
そのころ阪急にいらして、この時が最初の出会い。宮本さん、そして郵船に来てから
担当いただいている中田聡子さんは、私にとって「戦友」(勝手にそう思っています、
すみません)です。
 
 ツアーのお話をいただき、お受けしてみたものの、
旅先で何をしたらいいかわからないまま、
2000年の3月、第1回の「バッハへの旅」はスタートしました。
 阪急さんとしては、音楽ツアーは未知の世界、まして「バッハへの旅」など
人が集まるのかという心配があったようですが、蓋を開けてみたらなんと41名!が参加。
音楽ツアーにしてはツアー代金が安かったこともあるのかもしれませんが、
人気の最大の理由は「こんなツアーを待っていた!」というバッハファンの声でした。
結局この2000年には、1年間になんと6回!の「バッハへの旅」が
催行されることになったのです。



聖トーマス教会にあるバッハのお墓


とはいえ、第1回はてんてこまいでした。

 取材旅行をしたとはいえ、大半の街は取材時が初めての訪問。
1回訪れたからといって町の様子がつかめるはずもありません。
肝心の『バッハへの旅』の書籍もまだ刊行されておらず(出版は5月でした)、
何とゲラ刷り片手の旅。

さらに、各町に到着すると、地元の「ガイド」が現れる。
私は全く知らなかったのですが、基本的に「ツアー」には
「現地ガイド」がつくものなのですね。
 それはいいのですが、皆ドイツ人だし、こちらが「バッハへの旅」を
していることなど知らなかったりするので、地元の話をペラペラと話し出す。
それの通訳をしなければならないのはとても骨が折れました。
しかもある街で出会ったガイドは、こちらが「バッハへの旅」をしていると知ると、
「ではバッハ一族発祥の地であるヴェヒマルへ行かなければ!」と
強硬に主張し始めたのです。



ベルリンのコンツェルトハウス


今から旅程を変えることなど、できるわけはありません。
その時まで、現在のようなイヤホンガイドもない環境で、
41名を相手に大声で喋るとか、
訪問地に着くたびにトイレ探しに添乗員さんと走り回ったりとか(41名!ですよ)、
コンサートの終演後に別の街に移動して真夜中にチェックインを
しなければならなかったりとか、諸々不慣れなことが続いて疲れて果てていた私は、
ほとんど泣きそうになってしまいました。

それで、2回目以降の「バッハへの旅」では、ガイドをキャンセルして、
私が話をさせていただくことにしたのです。
幸い、現地ガイドをつけないと罰金を取られるイタリアやスペインなどと違い、
ドイツでは必ずガイドをつけなければならないというルールはまだそれほど厳しく
ないようなので、この方針は現在まで変わっていません。
 旅の後、私は一人でヴェネツィアへ行ったのですが、
ホテルの部屋に着くやいなやベッドに倒れ込み、一昼夜眠りこけてしまったのでした。




ツアーの間には、ホテルの会議室でレクチャーもあります


アイゼナッハのバッハハウス


一方で、ご参加の方のほとんどは、とても幸せそうでした。
真夜中のチェックインで延々と待たされても、
トイレトイレで観光時間がどんどん短くなっても、
あまり不満は出なかったように思います。

 なぜか。

 それは、「バッハゆかりの地に来ている」「バッハが吸った空気を吸っている」
「バッハゆかりの教会で《ヨハネ受難曲》を聴いている」(この時は、バッハの誕生日に、
バッハが洗礼を受けたアイゼナッハの聖ゲオルク教会で、アーノンクールが指揮する
《ヨハネ受難曲》を聴いたのです。バッハが洗礼を受けた洗礼盤の前で!)、
「ベルリンで《マタイ受難曲を聴いている》」(ベルリンのコンツェルトハウスで、
ヤーコプスの指揮する《マタイ》を聴きました)ということで、みなさまが満足感で
いっぱいになっていたからだ、と思います。
バッハはそれだけ、深く好きになる方が多い作曲家なのです。
 この第1回の「バッハへの旅」に、「新婚旅行」として参加したカップルもいて、
何とハネムーンベビーに恵まれたのでした。
 
 旅の最後の夜、ベルリンでの《マタイ》の後、ホテルに戻って、
メンバーの一人の部屋で酒盛りになりました。
その時、ある方がしみじみと言ったのです。
「俺たち、隠れキリシタンみたいだなあ」、と。
 その方は、秋田で小学校の校長先生をしている方で、
時代小説なども書く方だったのですが、ふだん職場でバッハが好き、
なんてとてもいえない。けれどここに来ると、同行の士ばかりで、
心おきなくバッハの話ができる、というのでした。
 その感じ、よくわかります。クラシック音楽が好き、バッハが好き、
オペラが好き、普通にお勤めをしていると、なかなか口にできないかもしれません。
けれど、ここに来れば、そのような「場」があり、受け入れられ、寛ぐことができる。
とても、心に響いた言葉でした。



以来20年、「バッハへの旅」は毎年欠かさず続き、年に2回出ることもありますし、
続編である「続バッハへの旅」も生まれて、回を重ねています。

 そして、旅に参加した有志が集まる「合同同窓会」も続いています。
この貴重な「場」を、旅に行かなくとも保てないかと思って始めた「合同同窓会」ですが、
連絡役をお受けくださっている方々のお力添えもあり、またゲストを招いてお話や演奏を
聞くなど工夫もして、楽しみにしてくださっている方もいらっしゃるようです。
この11月には、鈴木秀美先生をゲストにお招きし、「バッハへの旅」20周年記念の
合同同窓会も予定しています。
あのベルリンの夜の一言も、このような「場」をつくり、なんとか続けられている原動力の
一つになっています。

 今年は残念なことに中止になってしまった「バッハへの旅」ですが、再開の暁には、
心を支えてくれるバッハの音楽の力を今まで以上に感じることができるのではないかと、
ワクワクしているところです。


「バッハへの旅」では、バッハがオルガニストを務めていた教会で、オルガニストによるプライベートコンサートを楽しんでいただいています。



「バッハへの旅」誕生秘話、いかがでしたか?

◆書籍のご紹介◆
バッハへの旅 その生涯と由縁の街を巡る」(東京書籍)

加藤浩子氏プロフィール&過去ツアー実績、著書等の紹介はこちらから

「バッハへの旅」ツアーのことをもっと知りたい!という方は、
特集ページもぜひご覧ください。


投稿者名 マエストロ 投稿日時 2020年05月03日 | Permalink