加藤浩子の旅びと通信 第9回 イタリアで出会った忘れがたい言葉たち

 こんにちは、musicaです。
 郵船トラベルの講師同行ツアー「バッハへの旅」「ヴェルディへの旅」などでおなじみの、加藤浩子氏による特別寄稿、第9回目をお届けします。

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 こんにちは。加藤浩子です。
 「郵船トラベル」さんが主催するツアーで、同行講師をさせていただいています。
 「郵船トラベル」さんのサイトから発信している「加藤浩子の旅びと通信」、第9回目の今回は、イタリアのオペラ旅で出会った、忘れがたい言葉たちについてお話ししたいと思います。


世界で初めて公開のオペラハウスができたヴェネツィア


 オペラはやっぱり、イタリア。
 オペラ旅はずいぶんしていますが、そう思うことがしばしばあります。
 公演のレベルの話ではありません。伝統的な劇場の、豪華だけれどどことこなく埃っぽい雰囲気とか、喝采や野次を通して伝わってくるお客さんの熱気とか体温とか、そのような諸々から立ち上ってくるある種の「匂い」のようなもの。
 それを感じる時、ああ、オペラはイタリアの「お国もの」なのだなあ、と感じてしまうのです。イタリアの伝統芸能なんだなあ、と。
 オペラはイタリアで、宮廷芸術として始まりました。最初はフィレンツェで、メディチ家の庇護もあって誕生し、ナポリやウィーンやドレスデンといった外国の宮廷へと広がります。一方で、共和国ヴェネツィアでは、一般庶民も入れる公開のオペラハウスが開場し、観客からやんやの喝采を受けることが目的で、機械仕掛けの舞台や、歌手が超絶技巧を発揮するようなアリアが開発されました。宮廷から街へ出た時、オペラは伝統芸能の仲間入りをしたのです。


ヴェネツィアを代表するオペラハウス、フェニーチェ大劇場


ヴェネツィアを代表するオペラハウス、フェニーチェ大劇場


 オペラの公演につきものの「掛け声」は、オペラが「伝統芸能」であることを痛感させてくれます。そして、この手の掛け声やヤジが一番多く、バラエティに富んでいるのもイタリアなのです。
 オペラでの掛け声といえば、一番有名なのは「ブラヴォー Bravo」でしょう。「すごい」「素晴らしい」などを意味するイタリア語で、国際的に流通しています。ちなみにBravoは男性の単数で、女性の単数はBrava ,男性複数はBravi, 女性複数はBrave ですが、使い分けているのはイタリア人くらいで、他の国では誰に対してもBravoを聞くことがほとんどです。それでいい、と思いますけれど。
 「ブラヴォー」の反対、つまり「ダメ!」「引っ込め!」などを意味するのが「ブー!Buu」。いわゆる「ブーイング」です。イタリアでのブーイング体験については、前々回でご紹介しましたが、「ブーイング」については、ドイツも結構手厳しい。演出を重視するお国柄なので、演出に対するブーイングが多いのがドイツの特徴です。バイロイト音楽祭など、新演出は必ずと言っていいほどブーイングの嵐になるよう。ブーイングされるのは演出家にとっては勲章だ、と聞いたこともあるほどです。


バイロイト祝祭劇場


 さて、ドイツをはじめ他の国ではまず聞くことがないのが、「アンコール!」を意味する「ビス!Bis !」です。アリアが素晴らしく歌われると、もう一度聴きたい!という思いが言葉になって、熱烈な拍手とともに客席から湧き起こるのがこの「ビス!」。歌手がなかなか応えないでいると、「ビス!」が「ビース!」になっていく。パスタを茹でるためのお湯が沸騰したまま放置され、蒸気がふつふつと渦巻いているように、客席から熱気が立ち上っている。それが、とてもイタリアらしいのです。
 この「ビス」が伝統芸能的だな、と思うのは、特定の曲や特定の歌手と結びついて、「お決まり」になっているケースが、往々にしてあるところです。
 例えば、ヴェルディのオペラ《ナブッコ》の合唱、〈行け、我が思いよ、黄金の翼に乗って〉。イタリアでは第二の国歌と位置付けられているほど親しまれている曲ですが、《ナブッコ》がイタリアで上演される時は、必ずと言っていいほど「ビス!」の声が湧き起こります。それに応えないなんてあり得ない!とでも言いたいような勢いなのです。
 名指揮者リッカルド・ムーティは、上演中のアンコールは「曲が途切れるから」と嫌うマエストロですが、この合唱への「ビス!」には、ほんの数回、渋々ながら応えました。それが「ムーティがとうとうビスに応えた!」と新聞記事にまでなったのですから、やはり「行け、我が思いよ」の「ビス」は特別です。


2013年にムーティが《ナブッコ》を振ったローマ歌劇場


2013年にムーティが《ナブッコ》を振ったローマ歌劇場


 もう一つ、特定の曲や特定の歌手と結びついた「ビス」といえば、レオ・ヌッチの《リゴレット》が思い浮かびます。
 イタリアの名バリトン、レオ・ヌッチは、ヴェルディの役柄を得意としていることで知られますが、特に宮廷道化師を主人公にした《リゴレット》のタイトルロールは、非公開の公演を含めれば600回!以上歌っているという当たり役。リゴレットといえばヌッチ、という時代が結構長く続きました。
 そのヌッチ、いつからか、《リゴレット》を歌う時、第二幕最後の、娘のジルダ(ソプラノ)との二重唱の後半部をアンコールするようになったのです。
 お客さんも心得たもので、ヌッチがよく出ているパルマの王立劇場などでは、ヌッチがリゴレットを歌う時は、必ずここで「ビス!」の大合唱が起こるのがお約束のようになっていたほど。二重唱が終わると、「さあ、来るぞ!」という感じで、「ビース」「ビース」と始まるのです。お楽しみはこれからだ、という感じ。舞台と客席の、阿吽の呼吸ですね。歌舞伎の大向こうみたい、と何度思ったことでしょう。
 そのヌッチ、なんと日本でも、「ビス!」に応えてくれまました。
 2013年9月、スカラ座の来日公演。演目はやはり《リゴレット》。第二幕幕切れの二重唱で、ヌッチと相手役のエレナ・モシュクが迫力満点の歌唱を終えた直後、「ビス!」が出たのです。
 まさか日本で出るとは思ってはいなかったので、びっくり仰天してしまいましたが、次の瞬間、私も「ビス!」の合唱に加わっていました。パルマでの同じ経験を思い出しながら。
 後で聞いた話では、ヌッチが事前に、何人かのファンに、「アンコールやるから、ビスよろしく!」と知らせていたようです。ますます、伝統芸能ですね。


ヌッチが活躍した、パルマの王立歌劇場


ヌッチが活躍した、パルマの王立歌劇場


 さて、オペラにつきものというわけではないですが、イタリアの劇場で体験した忘れがたい言葉に、「恥を知れ!Vergogna!」があります。
「恥を知れ」とは穏やかではありませんが、実際、穏やかではない場面での出来事でした。
 2012年春、フィレンツェ歌劇場。個人で、《アンナ・ボレーナ》の公演を聴きに訪れました。お目当ては、タイトルロールを歌ったソプラノ、マリエッラ・デヴィーア。イタリアの至宝と言いたくなる、ベテランのベルカントソプラノです。
 ハプニングは、開演前に起こりました。
 なんと、オーケストラと劇場側との賃金交渉が決裂し、オーケストラがストライキを宣言してしまったのです(正確には、ストライキを決議したのは、オーケストラの属している組合でしたが。イタリアでは、組合がとても強いのです)。
 責任はどうも、交渉の場をすっぽかしてしまった劇場総裁にあるようでした。ストライキを回避できなかったのは、彼女(女性の総裁でした)の不誠実さが原因だったようなのです。
 普通、公演が行われれば、キャストがかわろうがストライキがあろうが、チケットが払い戻されることはありません。けれどこの時、劇場は払い戻しに応じる決定をしました。とても珍しいことでしたが、ほとんどの聴衆は払い戻しをしなかったようです。皆、デヴィーアのアンナ・ボレーナを聴きたかった。私もそのために日本から駆けつけたのですし、アメリカやフランスから駆けつけたオペラファンもいました。帰れるはずもありません。
 その言葉は、開演前、総裁が、事情を説明しに緞帳の前に現れた時に飛びました。
 私の前列に座ったおじいさんが、顔を真っ赤にして、女性総裁目がけて「ベルゴーニャ!」と叫んだのです。
 それを合図にしたかのように、「Vergogna ! 」の一語が、あちこちから沸き出し始めました。
 ベルゴーニャ?ベルゴーニャって、何?
 イタリア語がよちよちだった私は、あっけにとられ、めんくらうばかりでした。
 ようやく意味が理解できたのは、第一波が収まってからだったと思います。


現在のフィレンツェ歌劇場


現在のフィレンツェ歌劇場


 ヤジを浴びながら総裁が舞台袖に引っ込み、緞帳が上がった瞬間は、それは見ものでした。
 だって、装置も衣装も全て揃っている舞台の下のオーケストラピットには、ピアノが2台と指揮者がいるだけだったのですから。


フィレンツェ歌劇場内部


フィレンツェ歌劇場内部、2019年春に観劇した《リア王》のカーテンコール


 燃えたのは、デヴィーアでした。そして、客席も。
 大詰めの狂乱の場で、ピアノを従えたデヴィーアの声が、高く高く舞い上がり、熱を帯びて宙に放たれた時、息を潜めて耳をそば立てていた客席から、悲鳴のような歓声が沸き起こったのでした。
 すべてに勝利したのは、プリマドンナだったのです。
 
 やっぱり、やめられません。生のオペラも、イタリアも。

 最後にご紹介した、デヴィーアの《アンナ・ボレーナ》、ラストシーンの動画がyoutubeにアップされていますので、ぜひご覧ください。



最後までお読みいただきありがとうございます。次回の配信もお楽しみに!

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投稿者名 musica 投稿日時 2020年09月30日 | Permalink