加藤浩子の旅びと通信 第3回 月の降る街で 〜 ケーテンの想い出

こんにちは、musicaです。
郵船トラベルの講師同行ツアー「バッハへの旅」「ヴェルディへの旅」
などでおなじみの、加藤浩子氏による特別寄稿、第3回目をお届けします。


バッハが仕えたレオポルト侯爵の居城、ケーテン城


こんにちは。加藤浩子です。


 「郵船トラベル」さんが主催するツアーで、同行講師をさせていただいています。
「郵船トラベル」さんのメールマガジンで発信している「加藤浩子の旅びと通信」、
第3回目になる今回は、「バッハへの旅」で訪れる街の中でもとりわけ想い出深い
街であるケーテンについて、お話しさせていただこうと思います。


 動画もありますので、ぜひ最後までお付き合いください。


ケーテンの街並み


「ケーテン」という街の名前は、バッハがお好きな方なら聞いたことがあるのでは
ないでしょうか。バッハは、旧東独の西端、テューリンゲン州のアイゼナッハに生まれ、
ザクセン州の大都会であるライプツィヒで人生を終えるまで、いくつかの街を転々としました。
オールドルフ、アルンシュタット、ミュールハウゼン、ヴァイマル、ケーテン・・・
ライプツィヒを除けば、当時も今も小さな街がほとんどです。
バッハは、「テューリンゲンの森」と呼ばれる森林地帯の懐にあったり、
中世以来の城壁に囲まれたりしているそんな街で、教会でオルガンを弾いたり、
合唱団を指揮したり、小さな城館で領主のために音楽を奏でたりして音楽家の務めを果たしていました。

 ケーテンは、そんな田舎町揃いの「バッハの街」の中でも、
ひときわ寂しい印象を与える街です。
 はじめてケーテンに足を踏み入れたのは、この連載の第一回でお話しした、
バッハの故地を写真とともに紹介した拙著『バッハへの旅』(東京書籍)のための
取材旅行ですが、その時の印象は強烈でした。
野なかの一本道を、ケーテンに向かってひた走る中で夜になってしまったのですが、
その時に見た夜空と月の風景は忘れられません。

見渡す限りいちめんの野が夜の漆黒に染まってしばらく経った頃、
雲の間から大きな月が現れました。満ちる直前のその月から、銀いろの光が、
夜の野に煌々と降り注いでいたのです。

 「寂しいところですね」

同行していたバッハ好きの編集者が、そう呟きました。

「バッハも、寂しかったでしょうね」

私もつい、うなずいてしまったのでした。


『バッハへの旅』は、バッハが暮らした街を紹介しながら彼の人生をたどる
構成になっているのですが、「ケーテン」の章の冒頭の一文は、この時の印象から生まれました。

「ケーテンでは月が降る」。

あれから何十回も訪れ、おびただしい数の素晴らしいコンサートを聴く機会に
恵まれたケーテンですが、その風景を想い出す時に真っ先に目に浮かぶのは、今でもあの時の夜と月です。



ケーテンでバッハが住んだ二つ目の家。当日の建物が残っています。


ケーテンは、30代にさしかかって脂が乗ってきた頃のバッハが、
5年半余りを過ごした街です。
当時この街は、アンハルト=ケーテン侯爵レオポルトが治めていました。
レオポルトは大変な音楽好きで、妹が嫁いだヴァイマルの公爵家に仕えていた
バッハの才能に目を見張り、自分の宮廷に迎えました。
「楽長」という、当時の音楽家としては最高の地位を用意して。

バッハはそれまで、主にバッハとその一族が信奉していたルター派の
教会で仕事をしていました。けれどレオポルト侯爵は、礼拝での音楽を
ほとんど禁じていたカルヴァン派の信者でしたので、バッハは侯爵のために
礼拝音楽を求められることはなく、もっぱら宮廷で演奏するための器楽音楽を書きました。
《ブランデンブルク協奏曲》《無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ》
《無伴奏チェロ組曲》《オブリガート・チェンバロとヴァイオリンのためのソナタ》
《インヴェンションとシンフォニア》…今なお人気の高いバッハの器楽作品の名曲の多くが、
ケーテンで生まれています。そのため、「ケーテン」という名前に親近感や憧れを抱く
バッハファンは少なくありません。

最近になって、ケーテンでバッハが住んでいた場所も正確に突き止められました。
バッハはケーテンで2つの家に暮らしましたが、その一つは建物も現存しています。
バッハが実際に住んだ家は、アイゼナッハの生家も、ライプツィヒで長年暮らした
教会学校に付属した住まいも含めて、一つも残っていないというのが定説でしたので、
これは「新発見」に属します。
その経緯については前回ご紹介した『バッハ』(平凡社新書)に書きましたので、
ご興味がおありでしたらご参照ください。




ケーテン・バッハフェスティバルの最中には、当時の衣装を着た地元の若者が案内係を務めることも。


そのケーテンでは、2年に一度、「ケーテン・バッハフェスティバル
Koethner Bachfesttage」が開かれています。
「バッハへの旅」で訪れるライプツィヒのバッハフェスティバルは6月ですが、
こちらは偶数年の9月初旬。空の高い、爽やかな季節に開催されるフェスティバルです。
街の中央にそびえる聖ヤコブ教会や、かつてバッハも演奏していたケーテンの城館の
大広間「鏡の間」、そしてルター派だったバッハが通っていた聖アグヌス教会などを会場に
バッハの名曲が体験できる、貴重なフェスティバルです。

「バッハへの旅」には、続編に当たる「続バッハへの旅」という企画もあり、
これまで10回ほど催行されていますが、そのメインは大体のところ、
このケーテン・バッハフェスティバルです。
とりわけ、ベルリン・フィルや、アンスバッハのバッハ音楽祭の総裁を歴任し、
豊富な人脈と経験を持つハンス・ゲオルク・シェーファー氏が総裁を務めていた
2002年から2014年にかけては、一流のバッハ演奏家が日々バッハの名曲を披露する、
それは贅沢なフェスティバルが繰り広げられました。
ガーディナー、ピノック、レオンハルト、パロット、コープマン、テツラフ、ファウスト、
ムローヴァ、ヒューイット、ミンコフスキ、べツァイデンホウト、サヴァール、ミールズ、
クイケン、ヘンゲルブロック…このフェスティバルで接した名演の数々は、今なお目に耳に鮮やかです。




バッハが通った聖アグヌス教会で、バッハの無伴奏作品を中心としたリサイタルを行ったイザベル・ファウスト(写真提供)Foto Fritsche


レオポルト侯爵がこの作品に耳を傾けた、まさにその場所であるケーテン城の「鏡の間」で、
ガーディナーと彼のアンサンブルであるイングリッシュ・バロック・ソロイスツが
丁々発止の名演を繰り広げた《ブランデンブルク協奏曲》(2008年)など、宝物のような経験でした。
目の前の演奏に没頭し、ふと目をあげると、窓の向こうに木々の葉の影が揺れている…。
それもまた、バッハが見たかもしれない景色なのでした。



ケーテン城の敷地内にあるバッハホール。フェスティバルの会場のひとつです。


ケーテンの地ビール


演奏会の前後に、演奏会場になっている教会やお城の周辺でくつろいでいる
アーティストに出会えたりするのも、ケーテン・バッハテスティバルの魅力です。
広場に出ているカフェのテーブルでコーヒーを飲んでいたトン・コープマンを囲んで
写真を撮ったり、
ジョルディ・サヴァールが指揮する《ロ短調ミサ曲》でソロを歌っていた
テノールの櫻田亮さんに記念撮影をおねだりしたり、
《ロ短調ミサ曲》演奏開始前のマルク・ミンコフスキにミニインタビューを試みたり…。
ふだんは住んでいる人がいるのかもわからないような静かな街ケーテンが、
2年にいちど活気に溢れる数日間が、「ケーテン・バッハフェスティバル」です。
そんな機会があるのも、この街が、「バッハの街」だからなのです。
そして旧東独の、寂れ朽ちている多くの小都市の中で、
ケーテンがゆっくりながらも美しい街並みを整えることができたのも、
やはりここが「バッハの街」だからなのでした。




ミンコフスキ指揮、《ロ短調ミサ曲》カーテンコール (写真提供)Foto Fritsche


アーティストにとっても、ケーテンはやはり特別な街です。
2014年のフェスティバルの際に、弦楽器奏者のシギスヴァルト・クイケンに
インタビューすることができたのですが、フェスティバルに初登場だったクイケンは、
「バッハの街ケーテンで演奏できることは、嬉しく名誉なことに決まっている」
と言いました。
その時クイケンは、「無伴奏チェロ組曲」の幾つかを、肩にかけるチェロである
「ヴィオロンチェロ・ダ・スパッラ」で演奏したのですが、
彼によると、バッハ当時のチェロは資料からみて絶対に「ヴィオロンチェロ・ダ・スパッラ」だったそうです。
「ケーテンで、ヴィオロンチェロ・ダ・スパッラで《無伴奏チェロ組曲》を演奏するのは、
バッハ以来僕がはじめてだよ」
 赤ワインをちびちび飲みながらそう呟いたクイケンは、とても嬉しそうでした。


ヴィオロンチェロ・ダ・スパッラを奏でるクイケン(写真提供)Foto Fritsche


「バッハへの旅」は、いつも発見に満ちています。



◆書籍のご紹介◆
「バッハ」(平凡社新書)
「バッハへの旅」(東京書籍)

加藤浩子氏プロフィール&過去ツアー実績、著書等の紹介はこちらから

「バッハへの旅」ツアーのことをもっと知りたい!という方は、
特集ページもぜひご覧ください。




投稿者名 musica 投稿日時 2020年06月05日 | Permalink