賤ヶ岳の戦いと銘酒「七本槍」

室町時代から続く木之本宿の富田酒造 七本槍が並びます


 2020年NHK大河ドラマ「麒麟がくる」は織田信長を撃った謀反人とされる明智光秀の視点から描かれた人間ドラマでご覧になった方も多いかと思います。ドラマのクライマックス、本能寺の変が起ったのは天正10(1582)年6月2日。翌年に信長の跡目を巡って羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)と柴田勝家が激しく争います。これが俗に言う「賤ヶ岳の戦い」です。


熊本城の加藤清正公像

 余呉湖を挟んで、両軍は北と南で睨み合っていました。天正11(1583)年の4月20日の未明、勝家側が大岩山に奇襲攻撃をかけた時に始まり、秀吉が勝利を手にするまで、わずか2日足らずで終わっています。勇猛果敢な働きにより秀吉に天下人へ道を開くきっかけを作った七人の若武者、加藤清正・福島正則・片桐且元・加藤嘉明・脇坂安治・平野長泰・糟谷武則を称え「賎ケ岳の七本槍」と呼ばれています。
 
 中でも虎退治で名高い加藤清正は後に熊本城を築城し、治山治水(ちさんちすい)工事や、水田の開発、南蛮貿易などに力を入れ肥後は豊になり、やがて領民から神様のように慕われ今でも「清正公(せいしょこ)さん」と熊本県民から親しみをもって呼ばれています。


全国新酒鑑評会で金賞を獲得

 この勇猛果敢な七人の武将の名に由来する奥琵琶湖の銘酒が富田酒造の「七本槍」。北国街道沿いの木之本宿にて室町時代より460年の歴史を持ち、現在も江戸期に建てられた蔵を酒造りに利用しています。霊峰伊吹山の伏流水を利用し、十五代目当主が2001年から契約農家と完全無農薬米による酒造りに取り組んでいます。
 また七本槍は現在の酒造りではほとんど行われていない生酛(きもと)という製法が用いられているのが特徴です。日本酒の原型であるもろみを作るには原料の米を蒸して水や麹を加えて酒母を作り、発酵させる必要があります。生酛はこの酒母作りを手作業で行うことを意味する言葉で、非常に手間がかかる作業です。それだけに杜氏の技能と経験がものを言います。杜氏のこだわりによる生酛造りは他には無い独自の魅力を持っているます。

 郵船トラベルが贈る2021年3月28日発「奥琵琶湖のオーベルジュ“ロテル・デュ・ラク”連泊と若狭海の幸、桜満喫の旅」ではホテルのセルフサービスラウンジで自由にこの「七本槍」をお召し上がり頂けます。またお部屋の冷蔵庫にも「七本槍」のミニボトルが入っていいますので、こちらも無料でご提供しています。
 歴史に彩られた日本酒のルーツを垣間見てはいかがでしょうか?


賤ヶ岳から望む余呉湖 激しい合戦があったとは思えないほど静かです。


投稿者名 emix 投稿日時 2021年03月01日 | Permalink

黒壁スクエアと由緒正しき近江牛

毛並みつやつや、大切に育てられる黒毛和牛


 近江は長浜、北国街道沿いに続く古い町並の一角に町のシンボル「黒壁スクエア」が佇みます。1900年(明治33年)に第百三十国立銀行長浜支店として黒漆喰の壁で建造され、その後、紡績会社の配送所、煙草専門公社、長浜カトリック教会と変遷し、1989年(平成元年)に黒壁1號館黒壁ガラス館としてオープンしました。


黒壁1號館 明治時代の銀行の建物です。

 エミール・ガレをはじめ、国内外のガラス作家の作品展や講演会、世界各国のガラス工芸品販売などを行ってきた中心的な存在で、その後「黒壁まちづくり」に参画した地元民間企業が周辺の古民家を改築し、ギャラリーやガラス体験教室、飲食店、カフェなど次々オープンし、現在、黒壁30號館まで広がりました。


サシが美しい黒毛和牛

 この黒壁スクエアからほど近い場所に、黒壁19號館として近江が誇る和牛を堪能できるお店「毛利志満(もりしま)長浜黒壁店」があります。創業130年、「毛利志満」は自家肥育牧場を持ち、黒毛和牛の中でも最高級と評される兵庫県但馬産の血統正しい生後7~8ヶ月の雌牛のみを限定移入しています。飼料を個別に調合するなどの細心の注意を払い2年余りの歳月をかけて水も空気も澄み渡る近江で育て最高級品質の近江牛(おうみうし)として出荷しています。


近江牛のステーキ

 日本の三大和牛(近江牛、松阪牛、神戸牛)は但馬産の牛としてルーツが同じで、中でも近江牛は最も古い400年の歴史を誇ります。
 宝玉のような赤い光沢と柔らかな繊維、美しく均等に入ったサシとのバランスはまさに逸品。口に入れれば、とろけるような食感の中から鼻にぬける香りも一級品!そーっとかむとあふれる肉汁が舌を包みこみます。

 郵船トラベルが贈る2021年3月28日発「奥琵琶湖のオーベルジュ“ロテル・デュ・ラク”連泊と若狭海の幸、桜満喫の旅」では、老舗近江牛レストラン「毛利志満」にてステーキのご昼食をお召し上がりいただきます。
若狭の美食の次は近江の美食をご堪能ください。


投稿者名 emix 投稿日時 2021年02月26日 | Permalink

若狭塗箸・箸の世界シェアは?

箸匠せいわの若狭塗橋


 1日の中で、最低1回は箸を使う機会がありますよね。筆者は昼食と夕食には必ず箸を使います。家庭ではお気に入りの塗り箸を、外食の際は割り箸を使うことが多いのですが、昨今、ゴミを減らし地球環境にやさしい活動SDGs(持続可能な開発目標)を実践する店が多くなり、飲食店でも使い捨てではない箸を使うところが増えてきました。


インドカリーは右手でいただきます。

 さて、この箸文化は世界に目を向けるとどのくらいの人々が使っているのか調べてみました。すると世界の約30%の人が箸を利用していました。残りの30%がフォーク、ナイフやスプーンなどカトラリーを利用、残り40%がヒンズー教、イスラム教の信者に多く、手で食べる食文化でした。

 
 箸を使うのは主に東アジアの食文化のようです。箸文化は中国発祥ですが、3世紀末に書かれた「魏志倭人伝」には日本人が手づかみで食事をしていたという記述が残っています。その後編纂された「古事記」にはスサノオノミコトが高天原を追放された後、出雲に降り立ち、川に箸が流れてきたのを見て上流に人が住んでいると知ったという記述があり、日本に箸文化が伝わったのは4世紀~7世紀の間ではないかと推察されています。

 日本、中国の他、朝鮮半島や台湾なども箸を利用します。各国の箸は微妙に異なっており、日本の箸は先にいくにつれて細くなっていますが、中国や朝鮮半島では箸の太さが均一のものもあります。また朝鮮半島では金属(元来は銀製)の箸や食器が使われています。これはその昔、王族などの毒殺が横行し、薬物で銀が変色する性質を利用して毒殺を事前に防御したという説もあります。

 現在、日本で使われている箸は木材や竹、プラスティックなど素材は多岐にわたります。今回、郵船トラベルのツアーで訪れる若狭は日本の塗り箸のシェア率80%にも及ぶ一大産地です。塗り箸とは様々な細工をした箸を漆で塗ってできた箸の事を指します


若狭塗橋の研磨

 この若狭塗り箸は、江戸時代初期に発展をし、貝殻や金銀箔を漆で何度も重ねて塗ったあと、美しい紋様を研ぎ出します。あまりの美しさからお殿様やお公家様たちの間で利用されました。



 郵船トラベルが贈る2021年3月28日発「奥琵琶湖のオーベルジュ“ロテル・デュ・ラク”連泊と若狭海の幸、桜満喫の旅」では伝統工芸を受け継ぐ匠たちが製作した高級品やモダンなデザインのものまでバリエーション豊富に取り扱っている箸匠せいわに立ち寄ります。また、若狭塗箸の最終工程である磨きの段階を体験いただけます。

みんなに喜ばれる箸の世界をのぞいてみませんか


デザイン豊富な若狭塗橋


投稿者名 ペンギン君 投稿日時 2021年02月22日 | Permalink

若狭から京都へ~鯖街道の贈り物~

鯖寿司(一例です)

鯖(サバ)」お好きですか? 近年鯖は、記憶力向上、認知症予防、動脈硬化の予防など健康増進食材としても注目されています。
 さて、京都の祇園新地「いづう」の鯖姿寿司は最高級品として京都随一の人気を誇ります。(筆者も大好きなのですが気楽に買えるお値段ではありません・・・)。この「いづう」の鯖姿寿司は京都の人がハレの日にいただく特別な逸品ですが、現在では大衆魚の鯖がここまで出世した秘密を探りたいと思います。

 若狭をほぼ東西に走る「丹後街道」は、東は越前敦賀、西は丹後の舞鶴あるいは宮津までの幹線道路でした。「若狭街道」は、大陸文化の玄関としての小浜から若狭町の日笠を通り、熊川宿を経て、滋賀県高島市朽木を越え、大原八瀬より京都御所への道です。


鯖街道口の石碑

 京都の最終地点は出町柳とされており、賀茂川と高野川が出合うあたりに石碑が立っています。
 この「若狭街道」のことを別名、鯖街道といいます。名前だけを聞くと、「ん??なんの道??」と思われると思います。鯖街道はその名の通り、若狭湾で捕れた鯖が運ばれてきた道です。水揚げされた鯖は京都へ運ばれ、御所へ献上されました。その後、庶民の間でも広く賞味できることができる食材として広く普及しました。
 鯖街道は奈良に都があった平城宮、明日香宮の時代から利用されていたそうで、起源は1,300年に遡ります。


取れたての鯖

 鯖は「生き腐れ」と言われ、水揚げすると鮮度が落ちやすい魚です。内陸の京都ではなにより新鮮な海の魚が重宝されていましたが、傷みやすい鯖を冷凍庫もトラックもない時代に若狭湾から運ぶため、塩漬けや酢〆などの加工が発達しました。若狭で塩漬けした鯖は京都に着いたころ、ちょうど良い塩加減になったと言われています。

 鯖寿司は滋養強壮を高める食として江戸時代に京都の花街で大流行となりました。徒歩で運ばれ、選び抜かれた貴重な鯖を、冷めても美味しい近江米、北前船で運ばれた昆布で巻き、京都の料理人の技でハレの日に相応しい逸品となり、竹の皮で包まれたその姿は贈答品としても使われる京都の美意識そのものです。現在にもその技は引き継がれています。

 鯖街道の起点は小浜のいづみ町商店街あたりとされていて「京は遠ても十八里」(約72km)と記載されたプレートが埋められています。若狭と京都はきわめて深い関係にありました。
 郵船トラベルが贈る2021年3月28日発「奥琵琶湖のオーベルジュ“ロテル・デュ・ラク”と若狭海の幸、桜満喫の旅」では1日目に京都から出発し、2日目に熊川宿を経由して、鯖街道を通り、小浜を訪れます。鯖が運ばれた歴史に思いを馳せながら、旅をお楽しみください。

夏山や 通ひなれたる 若狭人 与謝蕪村


鯖街道が通る熊川宿


投稿者名 ペンギン君 投稿日時 2021年02月20日 | Permalink

近江商人「三方よし」に学びましょう

近江商人の衣装で練り歩く「ごかのしょう新近江商人塾」のパレード (C)Biwako Visitors Bureau


 近江商人というと何を連想しますか。口がうまくて「なべぶた」を売りつけるあくどい商売で大儲けする商売人?? いえいえ、まさに真逆、今こそ彼らに学ぶべきと言っても過言ではないほどの大変な精進と信念を持って日本の近代経済を支えた偉人達なのです。
 
 1988年の映画「てんびんの詩」では裕福な近江商人の息子が「なべぶた」売るまで家に戻ることができない厳しい商人修行の様子が描かれ話題になりました。この映画は企業や学校の教育研修教材にも利用されているのでご存じの方も多いかもしれません。
 
 近江の国(滋賀県)は東海道、中山道、北国街道など中世より主要街道が通り、さらに琵琶湖が水路ともつながり、農産物、海産物、織物、材木などありとあらゆる物流の拠点でした。江戸時代になると、商人の活動は全国にも及び、その流れは現代にも続いています。
 このような地理的環境から近江商人の流れを汲む企業は流通系、商社系が多く、西武グループ、高島屋、伊藤忠商事、丸紅、トーメン(現豊田通商)など。また、繊維系では女性下着のワコール、ふとんの西川など現在も多くの著名企業が活躍しています。


商人の魂 五つ玉そろばん

売り手よし、買い手よし、世間よし」この標語を基に活動していく近江商人は、とても仁徳あふれる人々です。売り手と買い手の同意の他、世間によい影響を与えることをモットーに商売をしていました。現在でいう所の企業の社会的責任です。昔よりこの考えがあったとは驚きですね。この偉大な近江商人の語録をご紹介します。

陰徳善事(見返りを期待しない功労)
陰徳とは、売名行為の類ではなく、人知れず人の為になるような行為を言います。近江商人が行ったものには、神社仏閣への寄進、橋の架け替え工事等々、数多くあります。

お助け普請(公共事業・環境整備への参画)
近江商人は地場産業の育成や地域の活性化があってこそ商いが行えました。よって、お互い様という観念や地域への貢献を疎かにすることはありませんでした。今で言う公共事業的なものを率先して実施しています。

押込隠居(悪徳経営者の更迭)
先祖の苦労の賜物により今日の繁栄があるのであって、主人としてはわずか30年ほどの間、奉公する身と思い、家業を守り商いの繁栄に勤めるようにと伝えています。店の運営も、店と個人(主人)は別々のもので主人の私有財産ではないと考えられていたため、独断で物事の決定は行われず、今で言う取締役会で開かれていました。
よって、不的確な人物なら主人の座を追放や相続権の剥奪等の事例もあります。


近江商人が活躍した近江八幡市の新町通
(C)Biwako Visitors Bureau

 近江商人は自分の事ばかりではなく、周りの事を思って行動する人たちです。現代を生きる我々も見習うことで、もっと素敵な社会が生まれていきます。
 この近江商人のお膝元に郵船トラベルが贈る2021年3月28日発「奥琵琶湖のオーベルジュ“ロテル・デュ・ラク”連泊と若狭海の幸、桜満喫の旅」で訪れます。近江商人に思いをはせながら旅をお楽しみください。

*語録として紹介したのは、近江八幡観光物産協会様のホームページより引用させていただきました。(  )内は筆者が加筆しました。


投稿者名 ペンギン君 投稿日時 2021年02月19日 | Permalink