日本の闘牛

突然ですが、日本でも闘牛が行われていたのをご存知ですか!?
今日は闘う牛のお話です。
では、早速ご登場いただきましょう、にっぽん丸を背に現れたのは白樺王、7歳のオスです。


顔に飾りを付けていますね。久慈市の平庭高原では、東北地方で唯一、闘牛が行われていて、これは闘牛の出で立ちなのです。白樺王の番付は横綱。体重は1トンあるそうです。

なぜ東北で闘牛なのか。少し歴史を紐解いてみます。
にっぽん丸が停泊している久慈を含む、青森から岩手県北部にかけての太平洋沿岸地域は、献上品にも用いられた優秀な「南部駒」で有名ですが、馬と並んで「南部牛(なんぶうし)」も重要な特産で、江戸時代には多くの農家が数頭の牛を飼い、荷物などを運ぶ役牛として利用されていたそうです。

岩手県の沿岸部の村では農閑期には海水を利用して塩が生産されていましたが、南部牛は塩を背に積んで内陸部に輸送する「駄替え」と呼ばれる交易に活躍しました。北上山地を超えて盛岡方面まで運ぶこの交易ルートは「塩の道」と呼ばれました。

牛による交易は発達し、やがてより多くの牛を利用した輸送を生業とする「牛方(うしかた)」という人々が現れました。このような中で生まれたのが有名な『南部牛追い歌』です。

ところでこの「牛追い」という言葉、牛を「追う」なのですね。
牛は馬のように人が先に立って「牽く」ものではなく、人が後ろから「追い立てて」移動させます。ところが牛たちを制御するのは実は大変で、牛には強い牛に従って群れを形成する習性があるため群れの中での順位が明確でないと進む方向が決まらずケンカをしてしまうのだそうです。
逆に、先頭を歩く牛が決まっていると、群れの統制がとれ移動させやすいのだそうです。

ここでいよいよ、闘牛のルーツです。
群れの中のリーダーを決めて統制がとれるように、牛方たちは春に牛同士を戦わせる「角突き」を行いました。この角突きが現在の闘牛の起源となりました。

現在は、観光として闘牛が行われていますが、平庭高原では明確に勝敗がつく前に引き分けで試合を終わらせます。これは、徹底的に戦わせてしまうと負けた牛は闘争心をなくし、それ以上戦えなくなってしまうためなのだそうです。闘牛に関わる人は牛を飼育している畜産農家。「わが子同然」の牛をいたわり、長く一緒に闘牛を楽しむために守られている決まり事です。


投稿者名 アヒル船長 投稿日時 2016年07月23日 | Permalink